2018年02月25日

東長崎


東長崎とは、長崎市東部に位置する地域を指します。
私は小学2年生から中学校卒業までこの東長崎に住んでいました。
中里町というところで、古賀小学校、東長崎中学校の卒業です。

その頃も東長崎という地名はなかったので、漠然と長崎市の東側で、
日見峠を挟んで長崎市から隔絶された形になっていたのでそう呼んでいたものとばかり思っていました。
ところが、調べてみると東長崎という地名が昔はあったんですね。

1889年:町村制が施行され「西彼杵郡矢上村」「北高来郡古賀村」「北高来郡戸石村」が発足。

1955年(昭和30年):「西彼杵郡矢上村」「北高来郡古賀村」「北高来郡戸石村」が新設合併し「西彼杵郡東長崎町」が発足。
矢上村や古賀村、戸石村は、東長崎町矢上名のように、「名」の扱いになった。

1963年(昭和38年):長崎市に編入されて東長崎町は解消し、各名は市の行政区に継承され長崎市~名となる。

1971年(昭和46年):各名が廃止され、町を設置。

という歴史があり、1955年から1963年までの8年間『東長崎町』が存在したんですね。
この年になって初めて知り、ちょっと感動した次第です。
私の地元古賀が北高来郡だったのにはビックリです!

因みに、平成17年の行政区再編で「北高来郡森山町」「北高来郡高来町」「北高来郡小長井町」「西彼杵郡多良見町」が、
諫早市に編入され、『北高来郡』は消滅してしまいました。

今東長崎というと、日見峠からのエリア、芒塚町・宿町・網場町・堺のいはゆる日見中学校エリアも含まれると思います。
昔は日見エリアはまた東長崎とは別というイメージがありました。
その理由を考えたのですが、先日のブログ(領境石標)でもご紹介しましたが、
江戸時代の日見村は天領であり、矢上は天領ではありませんでした。
佐賀藩諫早領矢上村だったのですね。
そもそも東長崎町は古賀から矢上までで、やはり日見は別でした。
言葉とイメージは、時間の流れとともに変わっていくのですね。

東長崎を「ひがなが」と呼ぶ人がいます。
私が子供の頃は、この「ひがなが」の呼び方は市内の人が東長崎を蔑んだ呼び方という認識があり嫌いでした。
長崎市の東のはずれで、確かに田舎でした。
だからこそ「ひがなが」と呼ばれると、コンチクショ!と思ったのです(笑)
今の人はそういう感覚は知らないでしょうし、単純に省略して呼んでいるだけだと思います。
しかし習性でしょうね。
「ひがなが」と聞くとやはりいや~な気分になってしまいます・・・
もしかしたら、江戸時代に天領だった日見までの人々が、天領ではない矢上から向こうの地域を、
別の天地という見方をしていたのかもしれないな、などとふと思ってしまいました。

因みに、日見峠・日見トンネル・日見小学校・日見中学校と、日見の名前はしっかり残っています。
しかしながら、日見という地名は今はありません。

坂本龍馬は「長崎はわしの希望じゃ」と言ったとか。
江戸時代、長崎へ入るための長崎街道。
東長崎を通り、日見を通り、日見峠を超えれば、いよいよ希望の長崎という地理です。
日見宿・矢上宿など宿もたくさんあったようです。
東長崎も、日見も、長崎に行く人、長崎から帰る人にとって、大切な大切な街だったんだと誇らしく思います。

東長崎は私の地元であり、日見は私の母が幼少期を過ごした場所でした。
私のルーツ、東長崎のご紹介でした。


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Posted by spsnagasaki at 17:09│Comments(0)
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